
遥か遠くまで延びる壁の連なり。ここはヨルダン川西岸地区、
パレスチナ自治区と呼ばれるところだ。



聳え立つ壁が街の中を縦横無尽に走り、世界を分断している。
分離壁と呼ばれるイスラエルとパレスチナを文字通り分断する為の壁だ。
ベルリンの壁と良く似ているが、それよりもさらに高いような気がする、
イスラエルはこの壁をヨルダン川西岸地区に700kmも張り巡らし
パレスチナの街を分断隔離しているのだ。壁の向こう側に行く為には
特別な許可証が必要になり厳重な検問が設置されている。
何故こんな壁が出来たのか?それはパレスチナ側の自爆テロを防ぐ為と
言われているが、事はそう単純では無い。この2つの民族の歴史が
今尚続く混乱を終わりの見えない方向に導いてしまっているようだ。
このパレスチナの土地にイスラエル建国の為の国連決議が採択されたのは
1947年。その翌年5月にイスラエル建国は宣言されました。国連の決議の
内容はパレスチナの56%の地域にユダヤ国家を43%の地域にアラブ国家を建設し
聖地エルサレムは国際管理地区にするという内容でした。
しかし建国の翌日にそれを容認しない周辺のアラブ諸国が一斉にイスラエルを
攻撃し第一次中東戦争が始まったのです。この戦争でイスラエルは当初の割当地域
以上の土地を占領しパレスチナ全土の77%を手中に収めました。
その後1973年まで4回の中東戦争があり、その間にイスラエルはエルサレム全域を
手に入れ、当初東と西に分かれていたエルサレムを統一した首都と宣言しました。
その最後の中東戦争の頃からPLOの武装組織によるイスラエルへのテロ活動が
頻繁に始まるようになります。自分達の土地を奪い返す為に様々なテロやゲリラ
活動をするようになって行きました。イスラエルで爆弾が爆発すればパレスチナが
犯行声明を出し、イスラエルは報復にパレスチナを空爆するという応酬が長く続き
混乱を極めましたが、1993年のオスロ合意によってガザ地区とヨルダン川西岸地区
の暫定自治をイスラエルが認め、中東和平が実現したかのように見えました。
しかしオスロ合意に調印したイスラエルのラビン首相が同じイスラエルの強硬派に
暗殺されると、変わって和平には消極的なネタニヤフ首相がイスラエルの舵取りを
するようになります。その政策でパレスチナ自治区の中にユダヤ人が新たに移り住む
事を認めパレスチナの土地を浸食し始めました。この事から一気にパレスチナ側の
不満が爆発しせっかくのオスロ合意も完全に水に流れてしまいました。



これがイスラエルが国策で進めるユダヤ人入植地。このようなマンション群を
至る所に建設し実行支配を確固たるものにしようと既成事実を積み重ねています。


ヨルダン川西岸地区は全てパレスチナの暫定自治区とほとんどの人が
思っているようですが、国連が制作したこの地図を見ると、薄黄色の
土地がパレスチナ自治区。その中に点在する薄紫の地域がユダヤ人の
入植地を示しており、この浸食は現在進行形で今尚続いています。



壁に囲まれ抑圧された生活が続く中で自分の土地をユダヤ人に売って海外に
逃げ出すパレスチナ人も多く現れ、イスラエル側に内通した人間を多く生み出し
混沌とした世界が存在しているような、あやふやな雰囲気が充満していました。
鍵のモニュメントは「約束の鍵」と言われ、中東戦争時に戦火を逃れる為に避難
したパレスチナの人達が、本当にちょっと鍵を閉めて一時避難しただけだったのに
未だに自分達の土地に帰る事ができない現状を憂い、いつの日か帰る事を夢見て
作ったと言います。

現在パレスチナ暫定自治区を治めるアッバス議長。昨年9月の国連総会では
イスラエルのユダヤ人入植地の肥大化も押さえる事ができず、イスラエルとの
和平交渉も拒絶されており、パレスチナ人達をも収拾するのが難しくなった
事からパレスチナを国家として認めて欲しいと訴えました。それから5ヶ月
経った今も何も変わらない現状に国連のパン事務総長はパレスチナを訪れ、
国連として引き続き国際社会に訴え中東和平の実現に尽力すると会見しました。

今現在イスラエルによる占領が続くパレスチナ。このアラブの民が
国家として認められる日はくるのか?パレスチナ側は今も続くこの入植を
直ちに止めろと主張し、イスラエル側は壁でパレスチナ人の往来を制御し
和平会議を先延ばしにしている間に実行支配を確固たる物にして、実際に
交渉に入った時には有利に交渉に望めるように着々と準備を進めている。
双方が同じ交渉のテーブルに付けるように国連や国際社会が強い態度で
望み真の仲介が進む事を切に願う次第です。
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